2009年12月19日

あまりにも傲慢。

天皇陛下と習副主席の特例会見問題をめぐる小沢氏会見の要旨(産経新聞)

(引用始め)

(小沢幹事長)「天皇陛下の国事行為は、国民の選んだ内閣の助言と承認で行われるんだよ。それが日本国憲法の理念であり本旨だ。何とかという宮内庁の役人(羽毛田信吾宮内庁長官)が、どうだこうだといったそうだが、日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。どうしても反対なら、辞表を提出した後にいうべきだ。当たり前でしょ、役人なんだもん」

(引用終わり)

傲慢とはこのような人のことを言うのだろう。時の政府の勝手な意思で天皇を政治利用しても構わないと宣言したに等しい暴論である。この小沢氏の発言については会見の直後から「国事行為ではなく公的行為に該当するものだ」との指摘が多方面から寄せられ、氏の憲法に関する浅薄な理解が浮き彫りにされたわけだが、ぼくが非常な嫌悪感を持ったのは、「天皇の国事行為」と「内閣の助言と承認」の主客が、小沢氏の理屈では完全に逆転していることである。

小沢氏は記者に対して「君は日本国憲法を読んでるかね?」と宣い、「内閣の助言と承認」を振りかざした。確かに日本国憲法は第三条に「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」第七条に「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」と規定しているが、内閣の助言と承認に「基づいて」国事行為が行なわれる、とは一言も書かれていない。氏は自分に都合のいい条文だけを取り上げているが、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」はまったく眼に入らないのだろうか。そのつまみ食いぶりには恐れ入る。

過去、現在、未来において日本人であった、ある、あるであろう人、それらのすべての人々の「在ること」を背負われ、政治的な信条や利害とは全く別次元においてなされるのが天皇の「国事行為」であろう。日本国民すべての存在を背負われて国会の開会を宣言されるからこそ、その国会が正当性を持つのである。かような「国事行為」の持つ特質、これがまず「主」前提条件としてあり、その特質を純粋な形で保持すべく「従」として静かにサポートする、それが「内閣の助言と承認」ではなかろうか。

一方小沢氏の理屈は主従が全く逆転している。氏の言わんとすることは「内閣の助言と承認」と称するものに天皇の行為を「従わせる」ということに他ならない。「これは内閣の助言と承認である」という体裁さえ整えられれば、時の権力が何らかの恣意的な目的をもって天皇に自らの政治的意図に適う行為を「国事行為」として行なわせることまで可能にしてしまう、実に危険な主張であるとぼくは思う。

「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇を時の権力に従属させようとすることは、その権力を支持する人も含め、等しく日本国民を侮辱するものである。こういう人物に政治を動かす資格はない。
posted by とりぷる at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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