2023年06月22日

iPhone14とDMH-SF500

携帯電話をarrows We F-51BからiPhone14無印に機種変更した。
arrows Weの携帯電話としての機能に特に不満はなかった(USB端子に水やほこりが入ったという警告が何度確認し直しても出続けることにはやや閉口したが)。機種変更したほぼ唯一の理由は、カロッツェリアのディスプレイオーディオDMH-SF500とCarPlay接続して使うためである。
F-51Bはスマートフォンとしては安価な部類に入る。スマートフォンやタブレットで使えるナビアプリは機器のSoCのパワーが不足すると覿面に動作が重くなる。この機種にナビアプリの負荷は荷が重かろうと判断した。一方iPhone14無印のSoCはA15、現有しているiPad mini第5世代(A12)でナビアプリが問題なく動作することを確認できているので処理能力は申し分ない。

カラーはイエローにした。部屋が散らかっていても見つけやすかろうというふざけた理由からである。これまでApple製品を使ってきた印象からこのイエローにもメタリックな光沢がついているのだろうと思っていたら驚くほどパステル調。ちょっと笑った。
さてこのiPhoneには防水防塵機能はあるが耐衝撃機能がない。arrowsを使っていたのはドコモキャリアで耐衝撃機能を持っているのがarrowsシリーズしかなかったためである。自分の場合仕事環境等の理由により耐衝撃は必須だ。というわけで耐衝撃カバーを購入した。最初ネットで探そうとしたがあまりに種類が多くて目眩がしてきたので、近くのイオンモールにある品ぞろえ良さそうなスマホアクセサリーの店で探すことにした。選んだのはRAPTIC Shield for iPhone14。3メートルの高さから落としても壊れない耐衝撃性を謳う。嵩張りすぎたり重すぎたり変なガジェット感が出すぎたりするなら耐衝撃性能はやや落ちるが同ブランドのClear Vue for iPhone14を買い直そうと思っていたがそのへんはあまり気にならなかったのでそのまま使用継続決定。ついでに同じ店で画面保護ガラスray-out RT-P36F/HGBも購入。これらはあらかじめ購入しておき、ドコモのショップに出向いた際に応対してくれた店員に頼んで新しく保有するiPhoneに取り付けてもらった(有料)。
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DMH-SF500のほうは馴染みの車屋さんに取り付けを頼み、仕上がってきたところで早速iPhoneとの接続を試してみる。Bluetoothによる接続の確立も結構早い(arrowsと以前取り付けていたカーオーディオではだいぶ待たされた)。次に有線接続してCarPlay機能を試す。こちらも接続の確立は早く、iPhoneのミュージックアプリやナビアプリもすんなりDMH-SF500の画面で操作可能になった。動作も十分軽快。必要な画面を出すためのスワイプ操作にもう少し慣れれば便利に使えるようになるだろう。DMH-SF500は先に発売されたDMH-SF700の弟分にあたる機種であり、HDMI入力端子が省略され画面解像度も幾分落とされているが車内で動画を見ることはないので全く問題ない。他方SF500において新たに付与されたWeblink機能では、スマートフォンの画面を映し出して操作できるWeblink Cast機能でなぜか画面を横表示にすることができず実に使いづらかった。機種によるものか、あるいはiOSのバージョンによるものか確認はし切れなかったがiPhoneではホーム画面が横表示できない仕様になっている場合があるそうで(アプリは対応していれば可)、当方のiPhone14無印もそうなっている。SF500で横表示できないのはそのへんの兼ね合いがあるのかもしれない。まあなくても困らないのでこの機能はパス。

あとは車のエンジンをかけたときSF500の電源が入って画面表示されるが、今は使わないよというときに設定した時間で自動的に画面オフにしてくれることができればいいのにとも思った。メニューの中には「DISP OFF」というボタンがありこれをタップすれば画面は消えるのだがこれを行うには二度もしくは三度本体のボタンをタップして操作する必要がある。設定画面に「画面の自動オフ」とでもいった項目を設け、設定した時間に操作を行わなければ自動的に画面をオフにすることができれば手間が省けるし安全面でも良いと思う。
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2023年04月15日

漆の木を育てる人たち

漆の植林をしていたらいきなり難癖を付けられた→もうこの際「国産漆の生産」っていう地道すぎる努力を知ってほしい

Togetterを何気なく見てたらこんなまとめがあって、開いてみると「印伝の山本」さんのツイがあって少し驚いた。
山本さんは甲府市で伝統工芸「甲州印伝」の工房を営んでおられる方。印伝というのはWikipediaの記述を引用すると「印伝(いんでん、印傳)とは、印伝革の略であり、羊や鹿の皮をなめして染色を施し漆で模様を描いたもので、袋物などに用いられる。」

2018年の年末。父から「愛用の長財布がだいぶくたびれてきた。同じものをまた新しく誂えたいのだがどこの物か調べてくれ」と頼まれた。検索に検索を重ねること数時間、どうにかこの「印伝の山本」さんの商品一覧にある「束入れ」にほぼ間違いないと判明した。
山本さんにメールで問い合わせ、確かにウチの品だ、同じ柄の型紙もあります、との返答を頂いたので正式に注文。絶版になっていた裏地以外はほぼ同じものが、当初告げられた納期の半分、約ひと月半で届けられた。「ほかの作業の合間にうまく挟み込めた」とのことだった。父は大喜び、もちろん今も愛用している。

一連のツイートを書かれている方が、当方が「束入れ」を購入した際に応対してくださった方なのか、それともその御子息なのかは定かではないが、伝統工芸に欠かせぬ材料として自ら国産の漆の生産量を少しでも増やそうという取り組みを知ってとても感心した。
というのも、先日訪れた高知城で、天守最上部に設けられた巡縁(バルコニー)の高欄(手すり)の修復作業にあたっては、高欄に塗り込む漆のうち、数回の下塗りには70パーセント中国産30パーセント日本産の漆を混ぜたものが、そして(確か)二度の仕上げ塗りにだけ日本産漆が100パーセント用いられた、という展示を見たからだ。確か紙幣の原料として欠かせない楮や三椏も、現状その大部分を中国からの輸入に頼っているとどこかで読んだ覚えがある。寺社の修復にも柱などで国内でいい材が見つからず外材に頼ることもあると聞く。
そうした中材料の国産化に取り組もうとする姿勢は素晴らしいものだと思う。応援したい。また何か買わせていただきます。
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2023年04月11日

高知旅行記(後記)

終わってしまった旅を反芻したくなってこの旅行記を書いた。見たもの感じたことをほぼ省略せずに書き散らした。忘却の彼方に捨て去るのは勿体ないと思ったからだ。読み返してみるとメリハリなく単調で、牛の臓物の中身のような文章だが、誰かに読ませるためのものではないから別にそれでもいい。つらい日々も、かつての旅路、夢のような日々を反芻すれば少しは慰められる。

さて今回の高知旅行では荷物が嵩張るのを抑えたかったのでカメラは持参しなかった。しかしここは写真に収めておきたいと思えた箇所がいくつかあったので、スマートフォンやタブレットを使って写真を何枚か撮影した。ついでなので貼ってみる。

阿波池田行き特急「剣山」の行先表示幕。
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繁藤駅の情景。
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後免町の道路標識。「徳島」の表記に驚く。
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伊野方面行き乗り場から見たはりまや橋交差点。
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いの町紙の博物館エントランス。
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仁淀川橋へと続く坂道にあった酒問屋。
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仁淀川橋。
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高知城天守遠景。
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天守より高知市街を望む。
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高知港に停泊していた海上保安庁の巡視船「とさ」。でかい。
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骨董屋金物屋の並び。
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桂浜。
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とさでん桟橋車庫。
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少しさびれた高知駅西の商店街。
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高知旅行記(8)

ロッカーに預けておいた荷物を取り出して帰りの特急、13時13分発の土讃線特急南風16号に乗り込むべく高架化されたホームに上がる。すでに列車はホームに入っており、乗り込んでいる乗客の中には外国人観光客の姿もちらほら見かける。
列車は定刻に発車。ひとことで言って無茶苦茶に速い。平坦な市街地に新しく造られた高架線路ばかりではなく、土佐山田から分け入る山あいの急勾配すらディーゼルエンジンを轟々と唸らせつつ快調に飛ばす。車輪がレールの継ぎ目を叩く音が誇らしげにさえ聞こえる。間違いなく「南風」はJR四国の看板列車なのだろう。かつて蒸気機関車で苦心惨憺しながらこの勾配に挑んだであろう機関士が仮にこの列車に乗り合わせたとしたら驚嘆のあまり言葉を失うに違いない。定刻14時23分、阿波池田着。7分の好接続で徳島線特急剣山8号に乗り換える。
旅の初日、高知に向かって行く際にも感じたが、「剣山」には実に実にスピード感がない。山峡を快走、いや爆走してきた「南風」から乗り継ぐと一層その対比は際立つ。土讃線の山岳地帯より地形的な条件は厳しくなく勾配も緩やかであるはずなのに、阿波弁で「しわしわ行かんで」とでも言いたげにのんびりと、通過駅ではやっぱり速度を落として走る。しかし時刻には正確、定刻15時44分、徳島着。
旅を終えたくない。しかし日常に戻らなくてはならない。駅を出る。せめてもの慰みにと昼間から開いている駅前の居酒屋で生ビール大ジョッキとともに焼き鳥を四人前12本も頼んだら食い過ぎた。酔うことは出来なかった。

(了)
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2023年04月10日

高知旅行記(7)

時計を見ると9時50分。高知駅前に戻るバスは毎正時に発車する。予定ではもうしばらく滞在するつもりだったが見るべきものは見てしまったし、公園内の飲食店もまだ開いてないので10時ちょうど発のバスに乗ってしまう。来た道を戻り、桟橋通五丁目バス停で下車する。少し歩くと昨日瞥見したとさでんの桟橋車庫。留置された電車群を出来るだけ近くで見たかったが車庫の入口に「許可なく当社敷地内への立ち入りを禁じる」と書かれた看板が立てられていたのでやむなく遠目に眺めて写真を望遠で数枚撮るにとどめた。もし車両見学会のような催しがあるなら是非行ってみたい。自分みたいなオッサンは浮きまくるかもしれないが。
ところで鉄道紀行作家の宮脇俊三氏は桟橋車庫前と桟橋通五丁目との駅間はなぜこんなに短いのか、という疑問を著作の中で何度か書いている。当方は現在の位置に車庫が設けられた際に桟橋車庫駅ができたからかな、と思っていたら違った。確かにとさでんの現車庫はかつてはりまや橋交差点から600メートルほど東の知寄町にあった車庫を昭和62年に移転したものであるが、桟橋車庫前電停は桟橋停留場という名で車庫の移転前から存在していたらしい。後から桟橋線を延伸して出来たのは桟橋通五丁目電停のほうで、戦前には土佐和紙を積んだ貨物列車を伊野からここまで引き込み高知港に入港した船舶に積み替えていたらしい。確かに僅か200メートル足らずとはいえ、人手でもって運ぶのとレールの上を転がして運ぶのとでは必要な労力は大幅に違ったであろう。
さて車庫を見学したのちとさでんで高知駅前に戻り、ネット検索で見つけた駅から徒歩15分ほどの良さげなラーメン屋で昼食を摂り、またぶらぶら歩いて高知駅に戻る。途中にあった公園の形の良い桜をしばし鑑賞する。半分くらい花は散っているけれど、残った花の薄桃色とその間に覗く若葉の初々しい緑との対比が美しい。
高知駅で帰りの特急の発車時刻までの時間を使って土産物コーナーを物色する。実のところこれといったものはあまり見つからなかった。海苔佃煮やカツオの生節は徳島でも手に入るし、観光地にありがちな土地の名士や名所の名前だけ借りた菓子類にも食指は動かない。地酒は滞在中いろいろ飲んだしこれも徳島のそこそこ品揃えの豊富な酒屋に行けばすべてではないにせよ手に入る。結局高知の地場で長年の実績のある菓子店の和菓子と、高知の産んだ偉大な植物学者である牧野富太郎に因んだという謳い文句のコーヒー入りクッキーを買う。ところで当方にとってもっとも親しみを覚える高知人は物理学者にして随筆家・俳人である寺田寅彦なのだがこの人に因むものは結局今回の旅行ではついぞ見かけなかった。高知人で言えば小説家の有川浩さんの作品も良い。あと漫画家の西原理恵子さんの出身が高知であったことはとさでん電停の広告看板で今回初めて知った。

(続く)
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2023年04月09日

高知旅行記(6)

翌4月2日、旅程最終日。少し名残惜しくてホテルの部屋でのんびりし過ぎてしまい、朝食を摂る時間がなくなってしまった。両手に荷物を提げてチェックアウト。今日もよく晴れてくれた。高知駅の改札脇のコインロッカーに嵩張る荷物を放り込み、身軽になって駅北のバスターミナルから8時30分発の桂浜行きのバスに乗る。途中桟橋車庫の前を通ったので、桂浜での滞在を当初の予定より短めに切り上げ、帰りに最寄りのバス停で降りて車庫を見物することに決めた。少し長めのトンネルをひとつ抜け、浦戸湾西岸に拓けた宅地の間を南進する。向かって左側、浦戸湾の水際に近いほうだが、住宅がバスの走っている道路より頭ひとつ高いところに建っているのが見えた。先程のトンネルといい、この住宅といい、浦戸湾周囲の地形はかなり起伏が多いようだ。やがて住宅が徐々にばらけ、潮風のせいか幾分赤茶けた色合いを帯び始めたかと思っていると前方の視界がさっと開け、バスは大海原を一望する海岸沿いの道に出る。海は襞のような緩いウネリはあるものの穏やかな様子だ。沖に小さな漁船が一艘見える。しばらく行くと道は大きくカーブして東岸から浦戸大橋で湾口を渡ってきた道と合流し、桂浜を見下ろす浦戸山を急なアップダウンで越える。所要時間約40分で桂浜公園に到着。
公園内にはごく最近建てられたと思しき真新しい幾棟かの観光客向けの建物が整然と並んでいたが、桂浜を直接見通すことはできないので、バスを降りてどちらに歩けば浜に出られるのか分からずしばらくまごつく。足下の石畳に案内表示しておいてくれたら分かりやすかっただろうにと思う。どうにか案内板を見つけ、坂本龍馬像の立つ丘への階段を登り、そこから反対側の階段を下りればよいことが分かった。本人より台座のほうが高い龍馬像の脇を抜けてようやく桂浜へと降り立つ。東北端を上竜頭岬、西南端を下竜頭岬によって区切られた全長400メートル弱の、思っていたよりも小ぶりな砂浜であった。浜に沿って歩きやすく整備された歩道がある。好天の日曜日とあって大勢の観光客が繰り出してきている。屈んで砂を手に取ってみると地元徳島の砂浜で見られるものよりかなり大粒で黒っぽい。握るとシャリシャリと乾いた音がした。遊泳禁止の看板がある。台風などによる時化模様の際には歩道を通行禁止にしてを浜を閉鎖することもあるそうだ。
浜の反対側の端近くに桂浜水族館がある。予定してはおらず、そもそもその存在すら今の今まで知らなかったのだが、水族館にはこの歳になるまでほとんど行ったことがないし、時間にも余裕があるので入ってみることにする。小ぢんまりとした、幾分設備の外観も古めかしい施設だが創立は昭和6年、今年で92年目とのことだから歴史はある。建物内には土佐湾で捕獲されたものを中心とした大小様々な魚類と海亀。屋外の敷地にはトド、アシカ、ペンギンに加えて何故かカピバラ。カツオはいなかった。調べると日本各地にカツオを展示している水族館はいくつかあるそうだが、飼育の難しい魚とされているらしい。桂浜水族館の施設では手に余るのだろう。ひと通り見物して出る。

(続く)
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2023年04月08日

高知旅行記(5)

食事後仁淀川の河原に降り、流れに手を浸したり手頃な石で二度ばかり水切りをしたりしたのち来た道をそのまま戻り、伊野駅でしばし待つ。到着した電車は行きに乗った電車とは対照的な大層古い電車。筆文字で縦書きに大きく「いの」と書かれた菱形ホーローの行先表示板がなんだか可愛らしい。制服に名札を付けた幼稚園児の連想だろうか。
車内前方に掲げられた車両の出自には、この車両は1964年建造とあった。つまりは来年で還暦ということだ。まだまだ走ると書かれている。物持ちがいいことではあるが、実際のところとさでんは路線や車両の維持更新費をケチりながらだましだまし運行しているのが実情らしい。このままでは路線の大幅な廃止縮小もあり得るというネット記事もあった。
伊野駅前電停から脇に延びる、本線との接続を断ち切られたレールがある。運転手さんに訊くとかつてこのレールの先に車庫が設けられていたらしい。来た道を戻る電車はやはり来たときと同じように脇道の手前でいちいちパンパンと汽笛を鳴らしながら進む。この電車の汽笛は行きの電車とは違ってちゃんと汽笛らしい音がする。朝倉電停では来たときには行わなかったタブレット交換を行う。若干の眠気を覚えつつ電車に揺られ、高知城前電停にて下車。
歩いて5分ほど経つと高知城脇の公園にたどり着く。せっかくなので天守まで上がってみることにする。石段は大柄で急だが讃岐のこんぴらさんよりは楽であった。拝観料を払って天守の階段を登る。途中にあった「昭和の大修理」に関する展示が非常に興味深かった。しかしどこの国のとは言わないが外国人観光客らのけたたましい喋り声がうるさくて耳に障る。四方を開け放たれた天守からの眺めをしばし楽しんだのちに手すりを頼りにして天守を降りる。
高知城を辞したのち適当に東に向いて歩く。怪しげな金物屋や骨董屋がいくつか並ぶ先を通り過ぎると昨日行ったひろめ市場の前に出てきたがまだ日が高いので素通り、高知港を見に行くことにする。中央公園の前を通り再びはりまや橋電停へ。今度は桟橋通五丁目行きに乗る。終点のひとつ手前に桟橋車庫前という電停があるがどこに車庫があるのかこの時点では分からなかった。車庫前から眼と鼻の先にある終点、桟橋通五丁目で下車。道路を少し戻ってから東へ行くと高知港の第一埠頭と呼ばれる区域に出る。開いている防潮扉があったのでそこを通り岸壁に出る。係留されている船舶はいずれもかなり大ぶりであった。港のある浦戸湾内は静かでも湾から一歩出れば遮るもののない外海、ここに来ようとする船には高波やウネリに耐えられるだけの船型や装備が必要なのだろう。歩いて行けるいちばん先まで行き、風に吹かれながらしばらく港の景色を眺めたのち来た道を戻り再び桟橋通五丁目電停へ。少し涼しく感じられて来た中、高知駅前へと引き返す電車に乗る。桟橋車庫前を通過してすぐ、パッと眼前にたくさんの電車が留置された車庫が現れた。何のことはない、こちらに来たときには車庫と反対側を向いて座っていたから眼に入らなかっただけのことであった。
終点の高知駅前で降り、本日の晩飯に相応しいエモノがないか、近くにあるスーパーマーケットを物色してみたが、残念ながらこれといったものは見つけられなかった。結局昨日とは別の店でまたも寿司折と塩タタキを買ってホテルの部屋で食い、酒を飲んだ。Amazonプライムで適当な映画を半分くらい観てから就寝。

(続く)
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2023年04月07日

高知旅行記(4)

とりあえずの目標は伊野の街並みの西側を流れる仁淀川沿いにある「いの町紙の博物館」である。そこへ向けてクランク状に折れ曲がる細い道を歩く。普通の民家に混じって飲食店その他の商店が点在し、さらにはいの町の役場、銀行の支店、NTTの交換局、税務署などが建っている。途中にあった細い流れに架かる小さな橋の銘板には戦前の元号が刻まれていた。細く鄙びた雰囲気に比して場違いな施設の数々。今でこそ街並みの外周部を迂回する幅員の広いバイパス道路の陰に隠れてはいるが、この道こそかつての伊野の本通りであったに違いない。Googleマップを見ると今たどってきた道に「松山街道」あるいは「土佐街道」の表記がある。やはり、と我が意を強くした。
紙の博物館に到着し、入館料を支払って入る。ちぎり絵で描かれた見事な虎の絵をしばし鑑賞したのち常設展示室へ。まずこの地の特産である土佐和紙の歴史をたどる年表、および和紙の品質改良と販路拡大に尽力した吉井源太翁他数名の人士の紹介がある。吉井翁は和紙の普及と品質改良に生涯を尽くした人であり、全国各地から助言を求められれば懇切丁寧に応じ、ときには自ら出向いて技術指導を行なったらしい。展示の図を見るとわが徳島にも脚を運んでおられる。次室には土佐和紙の製法の解説および製紙道具の展示。楮を蒸して樹皮を剥ぐ、この樹皮をあれこれの手順でもって精製したのち漉いて紙にする。すべて人の手に頼っていた時代では気の遠くなるような労力が必要だったろう。ところで剥いだ樹皮は原木のわずか15パーセントにしかならないと展示には記されていたが、樹皮を剥いだ残りの85パーセントはどうしたのだろう。展示には説明がないが別の原木を蒸す際の焚き付けにでもしたのだろうか。

紙の博物館を辞し、仁淀川橋へと続く緩い登り坂を歩く。坂の中央あたりに歴史のありそうな酒問屋の建物がある。たどり着いた仁淀川橋はわが徳島の吉野川橋と同じような鉄骨構造を持った橋であった。欄干の銘板には「昭和五年十月架設」とある。ほう、吉野川橋の2年後かあ、と思いながら後年増築された歩道を歩いていると、現橋のすぐ上流側に橋脚の基礎のような構造物が見えた。なんだこれ。インターネットは便利なもので、調べると明治の終わりから大正始めにかけて造られた木造トラス橋があったらしい。さらにその以前には川渡しや船を連ねた仮設橋が松山街道の一部として仁淀川の両岸をつないでいたという。仁淀川橋東岸にある街並み、憶測だがこれはかつての宿場町だったのではないか。
景色を眺めながらゆるゆると仁淀川橋を渡る。紙の博物館あたりから対岸に見えていた場違いなほどに立派な宿はかつてかんぽの宿だったそうだ。当方は仁淀川橋を渡ったすぐ眼の前にある「水辺の駅 仁淀川にこにこ館」に脚を向ける。ちょうど昼飯時で飲食カウンターが開いていた。土佐あかうし牛すじカレー・・・は少しく値が張ったので普通のカレーライスとアイスコーヒーを注文。イートインスペースでしばし待ったのち出てきたカレーライスは実に変哲のない味だった。

(続く)
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2023年04月06日

高知旅行記(3)

翌4月1日。ホテルでバイキングの朝食を頂いたのちに外に出てはりまや橋電停まで歩く。少し風はあるが今日も気持ちよく晴れている。これからとさでんに乗って西に向かい終点の伊野まで行く。手持ちのタブレットで時刻表を確認すると次の伊野行きははりまや橋8時20分発とある。5分ほど前に電停に到着し、ベンチに座って待っているとほぼ定刻に電車が滑り込んできた。信号待ちが幾つもあるにも関わらず正確であることに感心する。
乗り込んだ車両は三つの箱を蛇腹で繋げたような構造になっていて、昨日見たり乗ったりした他の車両に比べて際立って新しい。床もぐっと低く乗り降りに配慮されている。後で調べたら2018年に導入された3000系「ハートラムII」という車両のようだ。
走り出すとサスペンションが優秀なのか、あるいは路盤や線路の状態が良いのか、揺れや騒音は昨日御免町から乗った車両よりだいぶ少ないように感じた。高知城前を過ぎたところで右手のビルの合間に天守が見えた。その場でタブレットを叩いて調べると日本に残る12の木造古天守のひとつがこの高知城天守とのこと。予定には入れてなかったが時間があれば訪れることにする。県庁前を過ぎると両側の車窓から見える建物がだんだん小ぶりになってくる。
やがて電車はぐっと速度を落として鏡川橋電停を通過するとほぼ直角に左カープを切って鏡川に架けられた鉄橋を渡る。2車線ずつのふたつの道路橋にとさでんの鉄橋が挟まれた造りになっている。向かって右、西側の道路橋は増大する自動車交通を捌くために後から付近のバイパス道路ともども整備されたものらしい。ここから線路は単線となる。鏡川橋はとさでんの運行上の区切りのひとつになっており、この先終点の伊野まで行く電車の本数は大幅に少なくなる。橋を渡り終えた電車は今度は右に大きく曲がって、鏡川南岸に造られたバイパス道路のさらに一本南に延びる幅員の狭い道へと進入する。人家に混じってちらほらと商店があるところを見ると、この道がかつての本通りであったのだろうか。それにしても狭い。電車のすぐ脇をかすめるようにして車が通り抜けていく。鴨部、曙町東町、曙町、朝倉、朝倉駅前と、停止位置を白線で描きバス停のような標識を立てただけの、雨避けの庇も乗降ステップも車道との間を区切る仕切りもない「ノーガード電停」が続く。これは別に当方が揶揄しているのではなく、とさでん自身がそう呼んでおり、車内にもその旨注意するようにとアナウンスが流れる。しかし用事があっても乗り降りしようという気分にはなれない。
朝倉駅前を過ぎると右手から県道が合流して漸く道幅は少し広くなり、電停にも車道の反対側だけにはどうにか「ガード」が付くようになる。見通しの効かない細い脇道がいくつもあり、電車はそうした箇所に差し掛かるたびにクラクションのような音色の汽笛を鳴らして通過し、やがて緩い峠をひとつ越え、いの町に入る。元はJRおよびとさでんの駅名表記と同じく「伊野町」であったが、2004年に隣接する2ヶ村と合併して以降は現在の平仮名表記となったとのこと。丈の低い人家、学校、広い駐車場を備えたショッピングセンターなどが続く鄙びた郊外の街並みを通り過ぎる。
用を足したくなったので終点のひとつ手前の伊野駅前で降りる。JR土讃線伊野駅の最寄りにある電停だが開業したのはとさでんのほうが先である。眼の前にあったコンビニでトイレを借りたのちあとひと駅の線路を見やる。線路の先が家並みの向こうに隠れているように見え、あの向こうに伊野電停があるのかと思いながら近づいていくと、隠れたように見えたところがそのまま線路の終端であり、「伊野駅」と書かれた小さな駅舎というか待合所のような小ぶりな建物がひっそりと佇んでいた。駅間距離は130メートルほど。昨日通った一条橋-清和学園前間に比べればその倍あるがそれでも随分短い。薄暗くがらんとした伊野駅舎の内部を少し眺めてから、電停前に延びる道を西に、電車の進んできた方向に歩いていく。

(続く)
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2023年04月04日

高知旅行記(2)

小柄な電車はわさわさと揺れながら短い専用軌道を通ったのち車道に合流する。複線の線路が片側1車線の車道と同じくらいの幅を占めて並走する。駅間は短く200メートルから長くても300メートルくらいか。舟入川の派流にかかる一条橋の両端にある一条橋電停と清和学園前電停に至ってはわずか63メートルしか離れておらず、「日本一短い駅間距離」としていくばくかの知名度を得ているそうである。電車は乗降客がいればごりごりと盛大なブレーキ音を立てながら停車し、いなければ通過する。降りる客より何割か多い客を新たに乗せ、高知市の市街地に差し掛かり道幅が広がるころには立つ客はいないもののロングシートの座席はあらかた塞がった。窓外の景色を眺めながら都合40分ほど揺られ、はりまや橋電停に到着した。高知駅前と桟橋通五丁目を南北に結ぶ路線と、後免町と伊野を東西に結ぶ路線がこのはりまや橋電停のある交差点で直交し、ダイヤモンドクロスを構成する。直交路に加えてカーブするレールまで敷かれている光景は壮観だが、頭上に張られている架線はそれに対応すべく相当にややこしく蜘蛛の巣のようである。
ここで下車し、高知駅前に取っておいた宿まで十数分の直進路を歩くことにする。高知市第一の目抜き通りであるはりまや通り、とさでんの複線の軌道を挟む片側2車線の道路は広々としており両側に並ぶ建物も大きく立派なものが多い。賑わいを失って久しく、干からびたような徳島駅前の光景とは大きすぎる差がある。天気は変わらず良く、薄手のコートを着てズボン下を履いた状態で歩いていると少し汗ばんできた。
宿に入って荷物を置き、コートとズボン下をうっちゃってから晩飯を確保するために再び外に出る。あらかじめ目星をつけておいたお寿司屋さんで持ち帰りの寿司折を注文しておいてから鰹の塩タタキを手に入れるべく「ひろめ市場」に向かう。スマートフォンの道案内に従って歩いていくと帯屋町通りのアーケードに出た。居並ぶ店舗美しく、照明明るく、人通り多く、これまた息絶え絶えの徳島駅前商店街とは正直雲泥の差であった。
ひろめ市場とはひと言で言うと飲み屋の集まったフードコートである。建物の壁沿いを鰹のタタキやら焼き鳥やら揚げ物やら肉料理やらをアルコールとともに商う店が取り囲み、その内側にたくさんのテーブルが並べられている。それにしてもまだ日没前なのに大変な人出である。肴を注文する客がそれぞれの店の前に列をなし、テーブルはほぼすべてが塞がり、客同士が酒と肴を楽しみながら思い思いの話で盛り上がっている。賑わっているのは良いことだが自分の性格としてはこのような場所に居続けるのはいささか落ち着かない。市場内にある酒屋さんで高知の地酒の小瓶を3本ほど購入し、眼に入った店で塩タタキ5切れを入手し終えると早々にひろめ市場を退散し、注文しておいた寿司折を受け取ってから宿に戻る。
湯船に湯を溜めて汗を流してからエモノを並べてのんびりと晩飯。寿司折の握りと鉄火巻きは形も味も良く、塩タタキは分厚い切り身にいささか怯んだものの口に入れると柔らかく臭みもなくこれも美味であった。しかし地酒は自分の好みからすればいずれも幾分甘口に過ぎ、その点はやや不満が残った。くちくなった腹をさすり、残った酒を片付けながら持ち込んだノートパソコンでネット配信のF1中継を観ているうちに寝落ちした。

(続く)
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